【波乱万丈!?和の道を歩む私の物語】– 和楽器奏者として生きる –

目次

Chapter1   4歳で出会った「おとこ」!? – 箏との運命の出会い

箏や三絃をやっていると、「お母さんかおばあちゃんがやっているの?」など、始めた理由は家柄なのかときかれることが多いのですが、我が家は超一般家庭です。
4人兄弟の末っ子で、唯一の女児として兄たちにいじめられながら、たくましく育ちました。

箏と出会ったのは4歳の頃、お友達のAちゃんのお家に遊びに行ったときでした。

そろそろ帰ろうかというとき、突然Aちゃんのお母さんに、「一緒にお箏やりましょうよ!」と言われました。
「おとこ?おとこってなぁに?」と首をかしげた、おとこな私…
そういえば大きい木みたいなのがいっぱいある…どうやらこれが〝おとこ〟らしい。

「来週お稽古にいらっしゃい」と、誘われるがまま、おとこ改め、お箏を習い始めました。

恐ろしいほどの美人で、なぜかただならぬオーラは漂っているけど、普通のお家の主婦だと思っていたAちゃんのお母さんは、実は箏の先生で、それも日本屈指のものすごい演奏家だと知りました。
それが、今は亡き深海さとみ先生です。

そして、長い箏との付き合いが始まります。
まさか自分がプロの演奏家になるなんて、思いもせず…。

Chapter2   
厳しさと迷いの中で – 中学・高校時代の葛藤

深海先生の一流の指導と采配のおかげで、小学生の頃から国立劇場などの大舞台にも乗らせていただき、今思えばとても貴重な経験を沢山させていただきました。
中学からは箏と同時に三絃も習い始め、先生の指導は厳しさを増すも、身体のことや人間関係など、色々な悩みを抱えるお年頃に…。

悩みが尽きず、日々鬱々としてお稽古に通うのがしんどい時期が続きました。
お稽古で毎回のように暗譜を言い渡されるも、頭がごちゃごちゃで曲を覚えるのに集中できず、いつも頭から煙が出そうでした。(でも当時覚えた曲は今でも覚えているという不思議)
しかし、箏と三絃をやめる勇気も出ず、苦しいながらもお稽古には途切れず通い続けました。

そして、辛かった中学時代を乗り越え、高校受験も無事合格。

心機一転、華の高校生活がスタート。
高校生活は色々ありつつも楽しく、吹奏学部でオーボエをたしなんだことは、五線譜に慣れる良い経験にもなりました。

あっという間に時は過ぎ、いよいよ進路を決める高校2年。
ある日、先生から「あなたはもう藝大受験生なんだからね!」と言われました。

え、そうなの?と、寝耳に水なJKの私。
友達と遊ぶ以外は、大好きなL’Arc〜en〜Cielのライブに行くか、食べるか寝ることくらいしかしていなかったので、(練習より我欲優先でした)そんなことは考えもしませんでした。
ましてや、あの名高い東京藝術大学なんて…。

と、そこに自分の意思はほとんどなかったものの、まぁ、他にやりたいこともできることも特別ないし…という安易な考えで、言われるがまま藝大を受験することに。

…甘すぎました。
ミツバチもビックリの甘さです。
私の他に、藝大受験生はAちゃんを含め3人いましたが、最もやる気の乏しかった私は、先生だけでなく、ありとあらゆる大人からめちゃくちゃに怒られ、厳しいことを言われてはすぐにメソメソしていました。
…まぁ、真面目に練習しないのだから怒られるのも当然です。(当時使っていた楽譜に「もっと練習をしろ」と殴り書きがあります)
一向にやる気が出ないままやる気が出るのを待ち続け、現実逃避に身を委ねる日々を送っていたら、何の文句も言えません。

そんな私も、怒られるのが嫌という理由から徐々にやる気を出し、いよいよ一次試験が差し迫ったあるとき、我が家で家庭崩壊の危機に陥る問題が勃発。
昔から家庭内があまり穏やかでなかった我が家でも、1、2位を争うほどの問題が発生し、テンションはだだ下がり、ストレスは最高潮…!!
昼夜を問わず響く喧騒に悩まされ、受験どころではありませんでしたが、聞こえないふりをしながら受験期間中も練習していました。
耐えきれず、二次試験前日(当日)の深夜3時に家出をしたのは、今となっては良い思い出です。

そんなこんなで、一度は浪人を考えもしましたが、最後に踏ん張りをみせ、Aちゃんと一緒に無事現役合格しました。
それとともに(?)家庭崩壊の危機も収束を見せ、ひとまず平和に。
後から事情を知った兄の「よく受かったねお前」の言葉とドン引きした表情は忘れられません。

Chapter3   期待と試練の藝大時代 –「負けず嫌い」が目覚めた瞬間

晴れて、藝大に入学。
初めこそ期待に胸を躍らせたものの、更なる苦労の日々が待ち受けていました。
レッスンで担当の先生にコテンパンに言われ、2週間お腹を壊したことも…。

藝大生ともなると、Aちゃんはもちろん、他の同期も超優秀。
なぜか自分はそこそこ上手いと勘違いしていた入学時の私は、嫌でも自分のレベルの低さを思い知り、打ちのめされました。
「藝大生ってイカレてる…」と、周りがおかしいことにして、上野公園を目的もなく歩いて現実逃避をしたこともあった、若気の至りまくりなJDの私。

しかし、周りに感化され、眠っていた負けず嫌いのスイッチが入ってからの私は、我ながら急スピードで上達していきました。(元が下手くそだったので当然といえば当然ですが)
一時は落第を覚悟したこともあった私が、4年生のときは好成績をとれるようになり、成長を実感し、本当に充実した4年間になったなぁと思います。
入学したてのときコテンパンに言われた先生から、4年生のときに「素晴らしい!」と言っていただいた思い出は一生の宝物です。

そして、無事(?)卒業。

ところが卒業時、教職で必修科目のガムランを履修していなかった(履修登録の時点で教務には確認したはずなのに泣)ことが原因で、取れるはずの教職免許が取れないという事態が発覚。

教免取るためにあんなに苦労したのに…。
「あんなマニアックな授業が必修だったなんて」と、声を出して言ったことを今でも覚えています。

そのことが発覚したちょうどその頃、深海先生から「大学院を受けなさい」と言われていたこともあり、大学院を受験することに。
大学院に入る人は本当に優秀なので、それほどの自信があるわけもなかったのですが、こうなっては大学院受験以外の選択肢はありません。
ガムランだけ履修するにも同じだけ学費払うなら、そりゃ大学院行かないと、と。(私は決して裕福な生まれではありません)

しかし二次の筆記試験でとんでもない失態を犯し、受験失敗。
翌年、2回目の挑戦でなんとか大学院に合格しました。

やっとの思いで入学した大学院。
めげそうになったことも多々ありつつ、大学院でも素晴らしい同期に恵まれ、充実した2年間を過ごすことができました。
そして修了と共に、無事ガムランの単位も取得し、教免もゲット。

さまざまな珍事もありつつ、私を成長させてくれた藝大。
ありがとう、そしてさようなら、藝大!

Chapter4   社会の荒波へ –「必要とされない自分」に悩んだ日々

…しかし、本当に大変なのは社会に出てからでした。
学生の頃は「卒業したらテキトーに結婚して芸事は趣味でやっていこう♪」くらいの覚悟しかなかったのですが、実際は自分でも驚くほど、芸が生活の中心になっていました。

でも、20代にして半禿げになるほど頑張ってきたのに、仕事がない…。
収入がなければ、いくら頑張っても世間からは認められません。

私は昔から超絶不器用なため、(何を隠そう正真正銘のADHDです)数少ない演奏の仕事で、失敗も沢山しました。
自分の不器用さがとにかく嫌で、〝必要とされない自分〟が受け入れられず、演奏家になって一番辛かった日々を悶々と過ごしていました。
そんな中、テレビから偶然聞こえてきた台詞。

—— 仕事がないときは、技術と知識を目一杯蓄えておきなさい。いつか必ず役に立つときが来るから。——

美輪明宏さんの言葉でした。
当時の私にとって、どんな言葉より深く胸に刻まれました。
今でも心の支えになっている金言です。

その言葉を信じ、深海先生のお稽古には誰よりも真面目に通っていたと思います。
実際に先生から、「あなたほど真面目な子、他にいないわよ」と言われたこともありました。

「これから先、何年先生が教えてくれるかわからない。先生の芸を後世に伝えて行くのは私だ!」という謎の使命感から、当時は、まだ手をつけていない曲を片っ端から勉強し、暗譜も積極的にこなしていました。
特に、演奏家ならば誰もが憧れるような難曲を中心に取り組み、そのおかげで、美輪さんの言葉を実感できたこともありました。
今思えば、このことが確実に今の私の土台になっていると思います。

そして、演奏の仕事は少しずつ増えていったものの、十分な収入も満足感も得られず、常に「このままじゃダメだ」という思いがあり、焦燥感から色々なコンクールを受けまくりました。
…予選落ちや、本選に進めても箸にも棒にもかからないことも、何度もありました。

それでも諦めずに数々のコンクールを受け続けた結果、入賞回数多数。
まずまずの結果を残せていたとは思います。

しかし、最優秀賞の壁は高く、後輩が最優秀賞を獲ったのを横目に指を噛み締めていたこともしばしば…。
気にしていないつもりでも、やっぱり悔しさはありました。

でも、最優秀賞を獲れるほどの自信もないし、自分が最優秀賞に相応しい演奏家とも思えない…。
そんな状況が長く続きました。

Chapter5   転換期到来! – コロナ禍での挑戦と奇跡の瞬間

転機は、コロナ禍に始まった、文化庁の〝三曲新進演奏家研修〟でした。
普段は習えない先生に1年間という期限付きで習うことができ、そのレッスン費が研修費として賄われるという非常にありがたい制度で、毎年数名が研修員として選ばれます。

その審査に通り、富山清琴先生に地歌三絃、福永千恵子先生に現代箏曲を教えていただくことになりました。
研修を終えた1年後に、『三曲奨励会』という、紀尾井ホールでの研修の成果発表の場も用意されています。

コロナ渦で演奏の仕事が全てなくなり、何もやることがなくなったタイミングで始まった研修。
好機に恵まれ、やる気満タン!

…ところが、根っからの不器用星人の私。
先生方から、いつもコテンパンに言われていました。
富山先生から、はっきり「ダメ」と言われたことも何度か…。(今思い出してもキツイものがあります)
筋金入りのネガティブ星人でもあった私は、私ってやっぱり才能ないんだな…と、みるみるやる気を失っていきます。

そして、あっという間に終わってしまった研修。
何も身にならなかったというわけではなかったけど、達成感は全くなく、良いのだろうか、このまま終わって…と罪悪感と後悔が押し寄せます。

…いやいや、このままじゃ終われない!と、真面目星人の私。
福永先生にだけでも続けて指導していただけるよう、深海先生を介してお願いし、引き続き自費でレッスンに通うことに。

しかし、中々現代曲を上手く演奏するコツが掴めないまま時間だけが過ぎ、気づけば、あっという間に三曲奨励会の2週間前となっていました。
三曲奨励会で発表する曲は、福永先生に習い始めてから本格的に始めた十七絃の曲で、『十七絃独奏による主題と変容〝風〟』。
手練れの十七絃奏者でも苦労する超難曲です。

それまで私が主に演奏していたのは、絃が13本のオーソドックスな箏。
十七絃は、箏よりも絃が太く本数も多いため、絃の位置をとらえるのが難しく、箏とは全く別の楽器と言えるくらい、弾くときの感覚も違います。

経験の少ない十七絃で、大嫌いなカメムシと同じくらい苦手意識のある曲を演奏することになった私。
しかも、出演順は何故か1番最後の出番である大トリ。

レッスンに通うも状況は好転せず、自分の限界を感じつつあったある日、ついに福永先生から言われてしまいます。
「練習の仕方がなってないと思うのよ」と…。

「はい、今日はもうおしまい」と、三曲奨励会2週間前にして、見放された私…。
体感温度氷点下の冷たさを感じ、その場で凍え死にそうでした。

電車の隅で、いい歳して泣きながら帰りました。
その通りすぎて、情けなさすぎて……。

そんな帰りの道中、腹の中でフツフツと湧き上がるものを感じました。

(コイツは…。)

長らく息を潜めていた〝負けず嫌い〟が、過去最大の存在感でやって来ました。

(…随分と久しぶりじゃないか。)

そして、帰宅し自室に入った瞬間、大暴走した負けず嫌いに背中を押されたかのように、腹の底から、

「…絶対に諦めない!!!」

と大声で両拳を天井に向かって突き上げ、完全に何かのスイッチがオンとなった私。
不思議と、強気な言葉を発すると力が漲ってくるのを感じ、〝言霊〟の存在を初めて実感した瞬間でもありました。

ついに研修が始まって以降、初めての〝本気モード〟に突入です。
人生でここまで集中したのは、大学院受験のときくらいです。
それからの2週間は、自分で自分の尻を叩き(物理)、演奏の仕事をこなしつつ、できるときは朝から晩まで一日中練習していました。

そして、三曲奨励会本番を迎え、当日まで福永先生に怒られながらも、なんとか及第点くらいはとれたかな…と思える演奏ができました。
舞台袖で聴いてくださっていた萩岡松韻先生から「良かったですよ」と言っていただき、福永先生からは、笑顔で「お疲れさま」とお声がけいただきました。
…まぁ、福永先生は、本当は色々言いたいことあるだろうな…と思いつつ、やっと肩の荷を降ろすことができました。

ホッとしたのも束の間、三曲奨励会のついでと思い、(というのはここだけの話ですが)同じ曲でエントリーしていた『賢順記念全国箏曲コンクール』が3日後に迫っていました。

〝最高峰の箏のコンクール〟とされる、全国から猛者が集う権威のあるコンクールです。

十七絃の経験がほとんどないのに、入賞なんて、まずあり得ません。
ダメ元の挑戦。
予選に通っただけでもよくやった。

本気でそう思っていました…
この言葉を聞くまでは。

『〝賢順賞〟は、安嶋三保子さんです!』

なんと、最高位の賢順賞に選ばれたのです。

名前を呼ばれ、驚きすぎて脳が処理出来ず、心臓が「ドクドクドクドクドクドクドクドクドク!!!!!!!!!」と、♩=150を越えるテンポで、最低でも16ビートは刻んでいるであろう爆音を、私の全身に向かって激しく奏でました。

「何かの間違いでは…?」と、昔知らないおじさんから蟹をもらったとき以来の戸惑いを感じ、挙動のおかしいまま壇上へ向かう私の様子が、後日テレビ放映されていました。
間違いではありませんでした。
これは只事ではありません。

最高峰の箏のコンクールでの、最高位受賞。
しかも苦手な、本格的に始めて間もない十七絃で。

……たけしも驚愕の奇跡体験。
〝アンビリバボー〟とは言わずとも、皆が驚く結果となりました。

実は、深海先生から「十七絃でコンクール受けるのやめたら?(どうせ賞もらえないから)」と応募前に何回も曲の変更を迫られていたのですが、「賞はもらえなくてもかまいません!」と、最後まで言うことを聞かなかった私。
基本的に先生の言うことを聞くべきなのは、わかっていました。

…でも、この曲でどうしても挑戦しなければ!と、今思えば自分でも不思議なくらい、頑なになっていました。
「無理かもしれないことでも、限界に挑戦したい」という思いが根底にあったのだと思います。
賞がとれなかったとしても、他の曲にしていたら、きっと後悔が残っていたでしょう。

自分で自分を納得させるためにも、後悔をしないためにも、時には意志を通すことも大事だなぁと思いました。

福永先生に後日お礼のご挨拶に伺ったところ、「三曲奨励会の演奏、すごく良かったのよ」と言ってくださいました。
えっ、そうだったんだ…!と初めて聞かされて驚いた私。
三曲奨励会に観覧に来ていたお客さまも、終演後に「最後の十七絃、良かったね」と言ってくださっていたとのこと。

直前まであんなに怒られていたから、まさかそんなに良い演奏ができていたなんて思ってもいなかったし、それならそうと言ってよ!もう!と思いましたが、コンクールを控えていたので、敢えて言わないでいてくださったのでしょう。
「本当に、よく頑張ったわね」と労っていただき、思わず泣きそうになってしまったのを覚えています。

福永先生だけは、コンクールの際「良い結果を期待しています」と言ってくださっていました。
現代曲を、ましてや十七絃なんて全く弾きこなせなかった私をここまで育ててくださった先生は、本当に偉大だと思います。

深海先生にも福永先生にも賢順賞受賞を喜んでいただけて嬉しかったのですが、あまりにも夢のようで、その後もしばらく実感が湧きませんでした。
…でも、周りからの私に対する印象が変わったことには、少しずつ気が付きました。

〝コンクール荒らし〟の異名を囁かれるようになり、気づけば、噂のあの人状態に。
初対面の人や大学の後輩、また、箏をされている方などから「ファンです!」「尊敬してます!」etc…大変ありがたいお声をかけていただくことも増え、賢順賞受賞をきっかけに、人生が開けていった感覚がありました。

それから少し自信をつけた私は、ソロリサイタル開催の夢を叶え、利根英法記念あいおい全国邦楽コンクールでの金賞受賞など、それまでの苦労が報われたと思えることもありました。

決して平坦な道のりではありませんでしたが、演奏家になって良かったと、ようやく心から幸せを感じられるようになりました。

*最後に*

私のような超絶不器用な人間でも、夢を諦めず、根気をもって取り組んできたおかげで、昔の自分からは考えられないようなことを達成することができました。
ここには載せられない辛いことも多々ありましたが、だからこその喜びも沢山経験できたと思います。
私をここまで育ててくださった先生方、支えてくれた家族や友人、応援してくださる皆さまのおかげです。

その後、私の芸の礎を築いてくださった深海先生は体調を崩され、2024年6月、私の自主コンサート当日に旅立たれました。
別れがこんなに早く来てしまうとは思いもしませんでしたが、幼い頃から先生の指導を受け、プロの演奏家にまで成長させていただいたこと、また、先生がお元気なうちにリサイタルができたことは、何より大切な経験であり、大切な思い出となりました。

先生から「アンタは根性ある!」「この子は宝物よ」と言っていただいたことは生涯忘れません。
いつか先生に胸を張ってお会いできるよう、これからも目標に向かって頑張ってまいります。

瑣末な経験談ではありますが、和楽器の世界に興味をもたれた方や、結果を気にして一歩を踏み出せずにいる方、やりたいことはあるけど将来を不安に感じている方の力に少しでもなれたらと思い、裏ストーリーを公開しました。
将来のある若い人たちや、和楽器にひたむきに取り組んでいる方へ向けての教授活動もしている身として、僅かでも励みになれれば幸いです。

2025年2月 安嶋三保子

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